ジャーナリングのすすめ③思考の方向性 

マインドフルネス
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やす

やす|清水康行
1989年生まれ。
生活の質を上げる事に向き合っています。
資格:WINメディテーション®公認プランナー
大学卒業後、スポーツアパレルのベンチャー企業に入社。「一生懸命働けば幸せになれるはず!」と信じ、11年半勤続。途中、昭和的な働き方をして、新規事業を立ち上げ成果を上げるも、心と体が疲弊。将来に対して明るい未来が描けない経験をする。「僕の人生これでよかったんだっけ?」と気付き「生活の質を上げる」事と、しばらくして「食事改善に取り組む」。どちらも功を奏し、結婚するまでに人生好転する。今は退職をして、自分の生き方を模索中。

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導入編と実践編では、とにかく自分に正直に書くということを大事にしてきました。自分を肯定しつつも、こっちの方向性に進んだ方が生きやすいよという思考の方向性と、ジャーナリング時の注意点をまとめました。

思考の方向性

向かう方向はマインドフルネスな考え方。推薦図書としては「反応しない練習 草薙 龍瞬 KADOKAWA」。マインドフルネスの実践をすると、日常での活用がなかなかにしにくい。と、試した方はわかるのではないだろうか。高尚な気持ちの時はその様に振る舞えるけど、時が経つとまたいつも通りに戻っている。いつも通りに戻るのを防ぎ、毎日取り組めているか?という確認ができる点、僕は日常ジャーナリングを続けている。

言われた事をどう受け取るか?

反応しない練習 草薙 龍瞬 KADOKAWA より
もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
わたしはあなが差し出したものを受け取らない。あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。
-罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・二カーニャ

食事の例えで混乱して、当時は話半分だったが、ジャーナリングを通して、この考えが腑に落ちた。言われた事に対して、瞬発的に反応するのではなく、取り込みはするが、返すのか、返さないのか選べる。それを罵りと取るのか、違う見方さえもできる。食事の例えにすると、皿は預かるが、食べるのか、丁重にお断りしつつ返すのか、ジャーナリングを通して考えることができる。繰り返し取り組む事で、ジャーナリング無しでも日常的にできるようになっている。

ジャーナリングで欲しいのは、加工する前の原液・素材

昨日の記事で、”カッコよくまとめる”などは加工だと表現してみた。ジャーナリングで欲しいのは、加工前の原液・素材。どちらかというと素材と言った方がわかりやすいかもしれない。あなたが思うにんじんを思い浮かべて欲しい。僕は今日ちょうど、料理ににんじんを使ったのでイメージしやすいのだが、どうだろう。スーパーで売られている土も綺麗サッパリ落とされて、葉っぱもない、付け根が力なく色褪せているにんじんを想像した人も多いかも知れない。それが思い込み。脳の癖だ。でも、ジャーナリングで欲しいのは、そうなる前の姿。畑で引っこ抜かれた状態の、土付き葉っぱ付きにんじんの姿である。販売者によっては土付き・葉付きの方が魅力的に売れるかもしれない。場合によっては規格があって、綺麗サッパリにんじんの方が適当かもしれない。けど、それは後の話。自然のままの頭の思考をノートに投影していく。加工していることに気付いたら、色眼鏡をかけずに見た本来の姿へ近づけて行けば良い。

書く事に対して苦手意識がある場合、取り組めてないことが一番の原因ではあるけれど、なにか立派なことを書こうとする節がある。かくいう僕も、ジャーナリングを半年お休みして、テーマを基に正解を書く課題は「ちゃんと書きたい」という欲が出て、テーマだけ書いて白紙。挙げ句関連しそうな本を読んで課題を忘れる。なんていうことが最近まで続いていた。あれだけ書くことが楽しかったのに、やり方を変えるとこんなにも大変な作業になるのか。と驚いた。

事実と感情は分けて捉える。

ジャーナリングを続けていく中で気づいたことは、「事実と感情を混ぜていた。」ということ。気持ちや感想も感情に含むとします。仕事や人間関係が上手く行かない大きな理由の一つを発見しました。そう、事実と感情は別にしたい。それだけでも、かなり日常生活が楽になった。

例えばこんな感じ。
あの人はいつもみたいに、身勝手にこう言っていた「これはやりたくないです」。

理系的・ビジネス的に捉える

事実と感情を分けて捉えるを別の言い方で表現してみたい。理系的できでもあるし、ビジネス的とも言えると思う。例えばこんなジャーナリングをしたとする。

あの人はいつもみたいに、身勝手にこう言っていた「これはやりたくないです。」って。考えられん!

という愚痴を注意深く見ていくと、いつもってどれぐらいの頻度?同じ様な場面があったら10回中何回言っている?身勝手にというのは、私からすると、身勝手に振る舞っていると見えるという感想。他の同僚から見たら、同じフレーズでも身勝手とは思わないかもしれない。と、客観性を持たせて行くと、そもそもこれらについて考える事自体、意味を持たないし時間の無駄に思えてくる。大事なのは、「これはやりたくないです。」と言った人の背景を考え、どうしてやりたくないです。と言ったのか?優先度が低い案件だったのかな?とか、メリットが無かったのか?と、そこから具体策を考え、行動に移す。そうすることで、ただの愚痴だったのが、解決できる人へと変わる可能性がでてくる。

-変化後-
あの人は「これはやりたくないです。」と言っていた。身勝手かもしれないが、自分が同じ立場だったら同じことを言っているかもしれない。じゃぁどうしたらよかったんだろう....。

頭の思考をそのまま一語一句書くということとは相反することだが、意識をしていくと案外慣れる。考えを捻じ曲げるのではなくて、事実を、事実として捉えれば良いだけなのだ。

注意点

ながらは非推奨

ジャーナリングは集中できる環境で取り組みたい。ながら作業は避けた方が良い。話しながら書くとか、音楽を聴きながら書くということは絶対にしない。僕は特にそれらに引っ張られて、文章が変わってしまうからだ。話をする時はペンを止め、聴くことに専念する。とにかく、むやみやたらに書けば良いってもんでもない。

日常ジャーナリングを活用していたのは、退職前まで3年間毎日続けていたため、内勤の方なら取り組みやすいはずだ。ノートを書いている頻度にもよるが、勤務時間中に人が書いている最中に「なんでノートなんか書いてるの?」と突っ込んでくる人はそうそういないと信じたい。

基本的には判断しない。

良いとか悪いとか、カッコいいダサい、ダメだ。となんでもかんでも判断しない事も重要。僕が生きづらさを感じていた時、とにかくすべて判断をしてしまっていた。時には必要だけど、自分の人生と関係ない事まで判断する必要はない。それこそ、芸能人のゴシップについての持論や感想は不要。そのエネルギーを他に回そう。ジャーナリングでもこれを意識するとずいんぶんと変わる。物事を捉えた時に、判断という反応をしないと言うこと。

さいごに

やす
やす

次回は補足的な事をまとめようとおもいます!

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